川田 水軒/筆 -- -- [1926] --

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所蔵館 所蔵場所 請求記号 資料コード 資料区分 帯出区分 状態 デジタル書庫リンク
県立 ★5F特別収蔵庫 HK/72/KA98/ 1001998267 特殊文庫 閲覧注意 アーカイブリンク iLisvirtual

概要・解説

(川田)水軒(すいけん) 筆『水太清無魚(みず・たいせいにして・うお・なし)』解説

 この書は「水は、あまり清すぎると魚が住まない。人は、あまりにも鋭すぎると従う者が居ない。」というような意味です。(水、太清にして魚、無し。人、太察にして従うもの無し。) この書は、近代日本の教育制度の整備に一生を懸けた高知県出身の川田正澂(かわだ・まさずみ 1864-1935)が1926年春に書いたもので、「水軒」というのは雅号(がごう 文学や書にたずさわる際のペンネーム)です。旧制府立高等学校(現・首都大学東京)の初代校長としても知られます。
 旧蔵者である東恩納寛惇(1882-1963)は府立高等学校の教授でしたから、先輩の川田が、学者・教育者として成熟期を迎えつつある眼光鋭い寛惇を思いやってこの書を贈ったのでしょうか。川田は教育行政の専門家であり、寛惇は歴史研究者でしたから、専門分野は異なります。しかし二人とも目の前に山積する課題をこなして近代日本の文化・教育に尽力した仕事仲間でしたから、同志という深い意識もあったと考えられます。その書は語りかけるように穏和な筆致でゆったりと書かれています。



(鶴田大)

参考文献・調査

(参考文献)
『図説 教育人物事典 日本教育史のなかの教育者群像』(全三冊 ぎょうせい 1984年)
「東恩納寛惇日記(抄)」(『東恩納寛惇全集10』(第一書房 1982年)ほか

(調査ノート)
・漢文二行書、軸装・一幅。
・「水太清無魚。人太察「無従。丙寅春日 水軒 □ □(朱方印 二顆)」(翻刻ファイル) 
・文末の「惟善為寶」(朱方印)、姓名印「川田正澂」(朱方印)。冒頭の引首印「楊柳暁風梧桐秋月」(白文朱方印)
・主要な美術家人名辞典に水軒号不見。
・落款の朱方印に「川田正澂(かわだ・まさずみ)とあり本名が知られる。
・雅号(ペンネーム)は普段の立場(家柄、職業など)を超えて文化的交流、表現活動をするために名乗るものなので、姓(苗字)と繋げて記すのは本来の意味から外れる。このため、姓はカッコ内にのみ記す。
・「丙寅春」という記述から1926年(昭和元年)春に書かれたことがわかる。
・川田正澂は土佐出身の教育者で、自身が士族出身だったこともあり、大正年間に視察したイギリスのパブリックスクールに感銘を受け、ある種のエリート教育を目指したとされる。しかし、イギリスのパブリックスクールは大英帝国の経済的豊かさを背景に、英国王室、大富豪の寄付金によって運営が行われていて、日本で同様の教育制度を形成することは不可能であった。
・日本独自の教育制度を模索した川田は、公立学校においても一貫教育を提唱したが、あまり受け入れられなかった。
・旧制府立高等学校の初代校長となり、府立中学、府立高校の連携を目指した。
・旧制府立高等学校はその後、東京都立大学~現在の首都大学東京と名称を変えた。
・東恩納寛惇は設立間もない府立高等学校時代~東京都立大学において教員を務めた。
・川田との直接の交流は調査中だが、共に創成期の府立高等学校の教育者として協力した間柄であったとみられる。この作品が寛惇の手許にあるのもこうした川田との関係によるものであろう。
 東恩納がどのように川田の教育理念に共感していたか、協力していたかは不明。要調査。

(鶴田大)

資料詳細

タイトル 水太清無魚
著者 川田 水軒 /筆  
出版年 [1926]
ページ数 1軸
大きさ 138×35cm
累積注記 水軒書 [旧タイトル],軸物 18

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タイトル 注記
翻刻:水太清無魚 水太清無魚 [翻刻](みずたいせいにしてうおなし)