東恩納寛惇文庫
東恩納寛惇文庫『琉球染織』についてご紹介します
東恩納寛惇(1882年~1963年:実際は1881年生まれ)は『南島風土記』や『黎明期の海外交通史』などを著作し、南方各地を訪れシャム(タイ)にアユタヤ発見のきっかけとなる日本人町があることを示した東京在住(拓殖大学教授)の沖縄の歴史学者であった。
その東恩納が60年の歳月をかけ収集した沖縄に関連する『歴代宝案』、『六諭衍義』などの文献、風俗図絵、軸物、拓本、冠、簪、染織、帯、書簡などの資料を、東恩納が帰沖するにあたり、戦火で歴史的資料を失った郷土の歴史研究の発展のため寄贈し、沖縄に財団法人東恩納文庫(1963年那覇市寄宮の郷土図書館東恩納文庫)を設立したが、東恩納が病気で亡くなったため遺族や関係者によって資料のみ帰郷することになった。その後、これらの資料は1965年には琉球政府に移管され、現在は沖縄県立図書館に収蔵されている。
東恩納文庫の中に標本1・2・3・4の『琉球染織』と名付けられた染織裂地帳4冊があるが、『琉球染織(標本1・2・3・4)』について記録されるものがなく、それがいつ頃どこで集められたものか、東恩納が自ら収集したものかなど明らかでない。しかし、資料中に桐板が多数あることや、経糸に生糸が使われているのが965の1点であることから、桐板が輸入禁止になる前と経糸に生糸を使わなくなる時期の重なるごく限られた年代(昭和10年代頃の那覇の織物屋で流通)に収集されたものと考えられる。
東恩納が沖縄織物研究の田中俊雄・玲子夫妻の『沖縄織物裂地の研究』の戦時中出版直前に焼失した第2回原稿・第4回原稿の校閲をしたことや、標本の中に織物名が書かれた沖縄縣女子師範學校 沖縄縣立第一高等女学校 姫百合會長西岡一義の封筒がわずかにみられることなどに関連があるものと思われる。また、『標本3』には嘉代集と書かれた紙が貼付されている。この嘉代集というタイトルが人名を指しているのか、琉球のすばらしい時代(嘉代)の記録集として嘉代集としたのかも明らかでなく、現在調査を進めている。
『琉球染織』には裂地219枚(紅型51枚、織物168枚)があり、今日では珍しい桐板(トンビャン)から身分の高い人物が着用する染・織物、庶民の生活に関わる題材を模様にした絣まで幅広く集められ、沖縄の染織文化を知る上で貴重な資料と考えられる。
今回、標本1・2・3・4の『琉球染織』を公開するにあたり、沖縄県立芸術大学附属研究所の柳悦州教授に監修、並びに織物の繊維の特定・裂地名称・解説と紅型の繊維の特定をして頂いた。